前記事で、いわゆる良妻賢母な友人にびっくりしたと書きましたが
(いしだ壱成・元妻のルールから考えた、家庭とは○○殺人である。その解決策とは)
人のふり見て、ってことで
我が身を振り返ってみようと思います・・・。
すると見えてきました。
私も結構な割合で「家政婦精神」を抱えているという事実に・・・
いや、だってだって
「夫より全然稼ぎが少ないし」
「夫より仕事の時間が短いし」
「女だし」
「母だし」
その他云々の理屈のもとに、そういえば毎日、好きでもない家事をやっています。
(手抜きは多いけどさ・・・)
夫はよく家事も育児も手伝ってくれる方なので、そこには感謝もあるし、人様からも
「お宅の旦那さんはよく育児も家事もやってくれて、あなたシアワセよね」
と言われるんです。
でね、そのたびに私は正直なところ違和感が拭えないんですよ。口には出さないけど。
だってあくまで夫はよく「手伝ってくれる」人。
主となるのは常に私で、私が「できない・至らない」ところを補ってくれる人。
「いやいやいや、そんな文句を言っちゃいかん!
なんせ夫は長時間働いているし、稼いでくるし
感謝こそすれ、文句なんて、このバチ当たりめー!」
ともう一人の優等生な私に(脳内で)説教されて、私はいつもその違和感に蓋をしています。
その違和感はどこから来るのか?と探ってみた時に、見えてきた答えが・・・
すべて惰性から発生している
というジレンマではなかろうか、という結論に達しました。
惰性、というのは
・仕事、お金、家事、育児などのお互いの役割について、二人で話をしたわけでもなく
・なんとなく「夫(男)だから」「妻(女)だから」という理由で役割が固定し
・特に疑問を差し挟むことなくそれが日常化している
という、思考停止状態な自分に腹が立つのではないか、と
自分の中で分析してみました。
私が勝手に家事をやってしまえば、
そりゃあ夫もやらなくなるわよね〜
ここで、私の二人の友人の例をご紹介します。
友人Aは、15歳年上の売れないミュージシャンと結婚しました。
この夫、ライブと称しては朝まで酒を飲み、家に帰らず、好き放題の人生。
一方友人Aは堅実な正社員としてフルタイムで働いてます。
昼夜逆転して(ろくに稼ぎもしない)夫のために、弁当まで作り、
その他家事もすべてやってあげてたAちゃん。
それを聞くとみんな
「Aちゃんは偉いねえ〜!!」と賞賛したものでした。
でもこれ、男女逆だったらどうなるでしょ?
売れないミュージシャンの女と、堅実な正社員の夫。
正社員の夫は稼いだ上に家事をすべて引き受けてくれる。
夫が賞賛される以前に、女に非難轟々じゃないかと思うのは私だけでしょうか。
(ちなみに数年前にAは離婚しました。10年持ったほうがすごいと思った私。)
もうひとり、私の親友Y。
彼女は2回結婚してるんですが、2回とも家事はご主人の専門。
「仕事のストレス発散は、料理」と言い切る旦那さんを見て、うらやましい・・・!
確かに彼女はバリバリ働く女性ですが、無職の時代も家事は旦那さん担当。
そもそも、バリバリ働いて家のこともすべてこなす!って女性のほうが多いですよね。)
Yに家事をやってくれる男と結婚するコツを聞いたところ
「家事はやったもの負け。部屋が汚くても自分からは動かずじっとしてるべし」
との答えが。
万人には役に立たないでしょうが、考えさせられるヒトコトでありました。
さて、何が言いたいかと申しますと
家事や育児もまだまだお互いが漠然と持つ「固定観念」をもとに運営されてて、
そこに二人で築いた「合意」がないことが多いんだと思うんですよ。
平成のこの世においても。
私なんてその上、結婚すぐに夫の不倫が発覚したこともあり、
「結婚ってなんだろう?そんな制度はなぜあるのだろう?みんななぜ結婚するのだろう?」
と思春期のような疑問がいつも心の隅にあるのであります。
さて、そんな時開くのは、敬愛する寺山修司の本でございます。
昭和の、今から50年近く前の書物にもかかわらず、寺山修司の言葉は全く色褪せない。
彼の言葉を読むたびに、背筋を正したくなる私です。
そんな言葉をご紹介しますね。
「青女論」の中で寺山は「結婚」という制度そのものに疑問を投げかけます。
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いま結婚しようとしている女性に「それがなぜ結婚でなければならないのか」を確かめてみることは無意味ではありません。
(中略)
しかし、もしもほんとに男と女とが愛しあっていて、その愛を永続させようとするのならば、その時に必要とされるのは「結婚」のような一夫一妻の制度によるよりも、お互いの愛の育て方自体によるべきです。
制度よりも「お互いの愛の育て方」が大切・・・
結婚という制度よりも優先されるべきは、二人の愛。
そして愛は育てるもの。
そこを理解している大人が多ければ、こんなに離婚率の高い世の中にならなかったでしょう。
家事についても、こう書かれています。
家事とよばれているものの大部分は今では代理stand forでまにあうようになってきつつあるのが現代の特色です。
こうした時代に、すべてのことを代用させても、どうしても代用させることのできぬものが、愛であると思われます。
なぜなら、愛だけは「代わりに愛してくれる」施設も代理人Stand inもいないからです。そして、もしも「家」を二人で持とうと決心したならば、二人にとって家事とは、洗濯や掃除、炊事のように他のものでまにあうようなものではなく「他では代用できない」ものであるべきではないでしょうか?*
青女のあなたが、もしもどうしても結婚し、家をもとうと思ったら、その時には「家事」が経済の貧困のヒズミとしてではなく、その「家」で、しかも二人以外の人間には決して代行のきかぬ行為をどのように分担しあってゆくかという、愛の政治学の問題であるというのが、私の考えなのです。
家事=愛の政治学。
確かに、現代において家事を代行してくれるものはたくさんある。
(優良な家電や、家事代行サービスだってかなり廉価になっています)
働く女性も増えている。
そんな中、「女性だから、妻だから家事をやる」と決めつけるよりも
二人で家の運営を考えていく「愛の政治学」ととらえるほうが
私は何倍もロマンを感じます。
家事を女がやるのがいけない、というつもりは毛頭ありません。
が、「稼いでないから」という下僕の根性で行うものではない気がする。
「愛」を基準に、家事も考えていく考え方は、
寺山の時代を超えて現代もなお、必要なことだと身にしみている私です。
私も自分自身の「結婚」のあり方を再考することが増えました。
家事、もその一つに加えていこうかな〜
進展したらまたご報告いたします😁