久しぶりに大好きな寺山修司を読み返しています。
寺山の言葉から、勇気がもらえる「コンプレックスについての考察」をご紹介。
大学生時代にハマった寺山修司。
「少女詩集」に惚れ込んで、他の著作も読むようになりました。
(少女詩集についてはこの記事:ひとりぼっちが辛かったら・・・届けたい、寺山修司の詩)
今読んでも難解な部分も多く、当時の自分がどれだけ理解してたかは???ですが、
時折胸に響くフレーズたちとの出会いは、今でもいくつも記憶しています。
その一つにあるのが「吃音について」の考察。
吃音=ドモリ。言葉をどもってしまうということです。
当人にとっては恥ずかしさも伴う、大きな悩みの種でしょう。
青森県出身の寺山自身、言葉には悩んでいたのかもしれません。
「吃音について」というタイトルの、おもしろいエッセイがあります。
『ドモリの正しい治し方』という本を読んで、「ドモリは全治する」ということ、
そのための方法論を読んでみたけれど、実につまらなかったそう(笑)
そこで寺山は一編のドラマを書いたのです。
「吃りクラブ」という、客全員がドモリである場末のクラブで起きた殺人事件。
ここで殺された教師は、なんと「ドモリの治し方」を研究している人間であった!
以下、引用します。
ドラマの中で、中年の紳士はこう演説します。
「ドモリは精神の貴族である。
ドモリはいいたいことをいっぱいためておいてから、
一つ一つ考え考え言うのだ。ドモリによる精神の屈折こそ、人間のことばの喜びを知るものである。
だいたい、ベラベラとしゃべるやつにはほんとうのことは何もいえない。
考えているひまもありゃしないじゃないか。え?
きみ、ドモリたまえよ。
きみ、ドモルのがいいんだよ」(家出のすすめ 寺山修司著 より引用)
ドモリ=コンプレックス、と決めつけてしまいそうなところですが・・・。
ドモリは精神の貴族!
ことばの喜びを知っているという。。。
私も学生時代は人見知り&臆病だったので、ペラペラとおしゃべりがうまい子を羨ましく思っていました。
が、頭や心ではいろんな言葉を考え、紡いでいたのも事実。
コンプレックスを抱えた自分に、優しい光を当ててもらったような気持ちになったものでした。
今は塾や職業訓練校で人前で話す仕事をするようになりましたが、
それでもペラペラしゃべるのは得意ではないです。
けれど、だからこそ私なりにうまく生徒さんと人間関係が築けているのかもしれない、と思っています。
先生仲間をみても、人気講師というのは二つに分かれる。
◎本当に弁舌の才能があり、話が上手い人
と
◎話が苦手だけれども、だからこそ丹念に授業を作り、伝わる授業ができる人
中途半端に、自分の能力を過信して準備を手抜きするような講師が実は最も不人気。
臆病な私が人前で話す仕事を続けているのも、寺山修司の言葉に勇気をもらったことが原点なのかもしれません。
最後にこうまとめています。
わたしの最近最も気に食わないものの一つに、ドモラずにスイスイと軽口をたたく人種があります。
かれらが言葉を尊敬していない、などと言うつもりはないが・・・、少なくともかれらは人生を尊敬していないことは まちがいがありません。(中略)
精神の屈折のない子に何で明日をまかせられるものか。と、いってもわたしの考えは、なにもハムレット的にドモレというものではなく、もっと自分のなにか
「恍惚と不安」のあるような思想を発見せよ、と主張しているに過ぎません。
言葉もまた肉体の一部である。完全な肉体が、人間として失格であるように・・・、
ドモリながらつぎの言葉を選ぶときの、言葉への新鮮な働きかけがないならば生きる歓びもまたないでしょう。(家出のすすめ 寺山修司著 より引用)
うまくしゃべれない、どもってしまう・・・
それを寺山修司に言わせれば
「人生を尊敬している」
ということであり、
「自分の中の恍惚と不安を発見し」
「生きる歓びに満ちた、明日を任せるに足る子」
であるということでなのです!
コンプレックスに囚われた時には、この素晴らしき発想転換で勇気を取り戻すこと!
常識とは違う、でも寺山の愛に溢れたこのエッセイ。
本棚の片隅に大切に置いて読み返していこうと思います。